暁美ほむらは我欲なんかに走ってない。

 
 全国のほむほむファンの諸君、まどマギダイエットは捗っているだろうか。
さすが虚淵先生と言うべきか、結末がハッピーエンドに限りなく近いバッドエンドでもやもやが残る。
つらい。日常生活に支障がでるほどに。だから救いを求めていくつかの記事を読んでみた。


 救いなんてなかった。そんな…あんまりだよ、こんなのってないよ。


 だが繰り返し鑑賞する間に新しい解釈を思いついたので、晒して見ようと思う。ほむほむファンの人は救われるはず。ネタバレを含むので、まだ見ていない人は映画館へダッシュすべし。


君の銀の庭(期間生産限定アニメ盤)

君の銀の庭(期間生産限定アニメ盤)


 結論から言うと、ほむらは我欲に走ったわけではない*1。そこを勘違いしている人が多いんじゃないか、という印象がある。「愛よ。」のインパクトが強すぎるし、「悪魔」のような風貌や主題歌の「君の銀の庭」からそう考えがちだけど、そうじゃない、と私は考える。


 なぜなら円環の理に導かれなかった理由の説明がつかないからだ。


 ほむらの魔女化が発覚したあと、魔女となったほむらを救うためにみんなが戦うシーンの最後を考えてほしい。まどかが結界を壊し、キュウべぇたちが現れたところでさやかが「あれを壊せばあんたは自由になれるんだほむら。インキュベーターの干渉を受けない世界で、あんたは本当のまどかに会える」と叫んでいる。それに、まどかがほむらを迎えに来た時も、これからはずっと一緒だよ、と言っている。つまり、あのまま円環の理に導かれれば、まどかとずっと一緒に居られたのだ。「悪魔」にならなくとも。


 ではなぜ叛逆したのか。


 それは花畑のシーンに表れている。ほむらはまどかに悪い夢を見たと伝える。夢の中で、まどかがひとりだけ遠いところに行ってしまって、大好きな人達と会えず、誰からも忘れられてしまったことを。前作では後味がよかったため忘れがちだが、あの世界ではまどかが犠牲になったからこそ、希望と絶望をめぐる残酷な連鎖が断ち切られたのだった。少なくともほむらはそう考えている。

 それに対しまどかは、そんな辛いことは私にはできない、と言う*2。そこでほむらは、まどかにとってもそれは辛いことだと気付いてしまった。それゆえほむらは叛逆を決意する。それを示唆してか、明るいBGMとは裏腹に、きれいな花が散っていった。正しさよりも明るい場所を求めて、「君の銀の庭」を否定する覚悟を決めたのだ*3


 つまり、まどかに辛い思いをしてほしくなかったから、叛逆した。


 だから、ずっと一緒にいられるだけでは物足りず、ひとり占めしたかった、という意見は的が外れている。ほむ改変後の世界*4では、まどかには大切な家族も友人もいる。この後、どうやってひとり占めするのか。まどかが手に入らなかったのはまどかの幸せを願った結果なのだ。まどかをひとり占めしようとした結果ではない。あなたが一緒なら私はどんな姿になったって平気だわ、というセリフはまどかへの献身を表したセリフだ。自分の欲よりもまどかの幸せを願っている。

 「この感情は私だけのもの」

 というセリフを聞いてゾクッとした人も多いだろう。かくいう私もそのひとりだ。だがこれもミスリードだ。「親切とは喜びにほかならない」といったのはアランだったか。愛する人を救うことに喜びを感じるのは異常だろうか。愛する人を支えてあげること、そして自分が生きていくことの支えにすること。これを彼女は「愛」と呼んだ*5

 どうも私には意図的にミスリードしているようにしか見えない。みんながアニメ版のさやか視点*6に陥っているように思える。アニメ版ではまどかは概念となり、魔法少女のために犠牲となった。劇場版ではほむらが悪役となり、まどかのために犠牲になった。そんなほむらがいつ我欲に走ったというのか。


幸福論 (岩波文庫)

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なお、愛が重すぎるので、クレイジーサイコレズであることは否定しない。

*1:我欲の是非はここでは論じない。それをここで語るには狭すぎる

*2:アニメ版でまどかが「これからの私はね、いつでもどこにでもいるの。だから見えなくても聞こえなくても、私はほむらちゃんの傍にいるよ」と言っているように、実際にはひとりぼっちではない。さやかやなぎさを連れてきたように、円環された魔法少女たちとは会える模様。ただ、夢の中のまどかはそれを知らない。

*3:君の銀の庭の2番を参照

*4:ほむらが悪魔化したあとの世界

*5:もちろんこれだけでは彼女は満足できない。その証拠に、エンディングではあの花畑でまどかをずっと待っていた。来たのはキュウべぇだったため、ボロ雑巾にされていたが。

*6:ほむらの本当の思惑が見えていない状態