太陽に何が起きているか

太陽に何が起きているか (文春新書)

 天文学といえば物理学の中でも花形の分野であり、異色の学問でもある。生物学では遺伝子を組み替え、化学では薬品を混ぜて化学反応を起こしてみる。物理学では物質に電流を流したり、熱を加えたり、電磁波を与えてみたりする。そう、一般的な科学では試料が手元にあり、それに刺激を与え、それに対する応答を読み取る。だが、天文学は違う。天文学の対象は手が届かないものばかりで、起こっている現象を観察することしかできない。それほど手がかりが少ないにもかかわらず、天文学は宇宙の神秘にせまる証拠を数多く見つけてきた。そんな人の知的好奇心の力を象徴する学問だ。

 本書は太陽の異変と最新の研究成果について述べた本だ。まず第一章でいくつかの太陽の異変 ー 黒点数の減少、太陽周期の延長、四重極構造の兆候 ー を挙げ、それらが地場によって説明できることを示唆する。続く第二章で太陽の基本的な性質を説明し、第三章では著者がプロジェクトマネージャーを務めた"ひので"のとらえた最新の研究成果を見る。第四章では"ひのとり"、"ようこう"、そして"ひので"の開発現場が語られ、そして第五章で太陽活動が地球にどのような影響を及ぼすかについて言及されている。

四重極構造

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http://www.nao.ac.jp/news/science/2012/20120419-polar-field-reversal.html

 この本を読む前に一番気になってたのがこれ。これまで太陽は地球と同じように、北極と南極に一つずつ極を持つ、二極構造をとっていた。一本の巨大な磁石が太陽の中心を貫いているような状態だ。2010年ごろまでは北極にS極、南極にN極が存在していて、予想では2013年にS、Nが入れ替わる予想だった。しかし、2012年に"ひので"によって予想よりも早く、S極だった北極の地場がゼロの状態に近づいていることが判明。これは太陽の北極磁場がまもなく反転すると予兆だ。一方南極の地場はN極のまま変化が見られなかった。このため太陽は理論上指摘されていた四重極構造になることが予想されている。これは2つの巨大な磁石が太陽を北極から中心にかけてN、S、中心から南極にかけてS、Nの順で配置しているような状態だ。理論的には予測されていたものの、実際に四重極構造になることを観察して著者も驚いたらしい。

http://www.nao.ac.jp/news/science/2013/20130131-hinode.html

 上のリンクが2013年1月31日の記事で、国立天文台の太陽地場反転の記事としては最新のもの。ここでも南極の地場の反転の兆候が見られなかったので、たぶんこれから11年間(地場反転の1サイクル)は四重極構造なのだろう。このメカニズムや、この構造が地球に及ぼす影響を知りたければ、ぜひ本書を見てほしい。

データの強み

 数学と違い、科学にとってデータは大切だ。数学は公理から出発して演繹的に定理を導いていく。だからデータなんていらない。だが物理学にとって、絶対に正しい公式というのは存在しない。太陽の質量を百万分の一の精度で測定できるニュートンの重力理論(万有引力の法則)でさえ、あるスケールでは使えなくなってしまう。ニュートンの運動方程式も然り。だから理論が本当に正しいかどうかはわからない。本当に正しいのは実験で得られたデータだ。

 本書ではその正しいデータの力が遺憾なく発揮されている。太陽には「コロナ加熱」という、長年考えられてきた謎の現象があり、それを説明する仮説として、ナノフレア説とアルベーン波説がある。結論から言うと、"ひので"はその二つの仮説の証拠を発見した。そして現在では両説を統一する道筋が見えているのだとか。仮説に過ぎなかったものを実際に観測したことの意義は大きい。ここに実験科学(実験してないけど)の面白さがある。それを著者はこのように書き表している。

「こういう観測結果が得られました」と書いただけとも言えますが、それが世界に衝撃を与えることもある。そこに天文学の醍醐味があります。

「宇宙創世」でハッブルが星雲が別個の銀河であることを証明したり、ペンジアスとウィルソンがCMB放射を発見したときのことを思い出した。素粒子論やストリング理論を調べてると、実験は理論が予測することを証明しているだけに見えるけれども、多くの物理の分野では実験の方が先行している。実験の醍醐味を再確認できる本だった。


宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)

宇宙創成〈下〉 (新潮文庫)

宇宙創成〈下〉 (新潮文庫)

日陰者の復讐 / ヤバい統計学

ヤバい統計学


 最近何かと統計学がピックアップされている。「統計学が最強の学問である」とか、やれビッグデータだ、やれデータマイニングだ、と世間ではブームが起こっているらしい。私のような狂信的物理学愛国主義の頑固者は、数学を単に物理学の侍女であるとみなしている。統計学も然り。従って、そんなに有用ならば学ばない理由はない。数式をいじってじっくり学ぶ前に、導入として読んでみた。

 本書は、以下の一見関係なさそうな10のエピソード ー ディズニーランドと高速道路、大腸菌の集団感染とクレジットカードの審査、フロリダ州の住宅保険とSAT、ドーピング検査と嘘発見器、ロトくじと飛行機の墜落事故 ー を例にとり、統計学の視点で世界を見るための重要な概念を説明していく。その過程で読者は極めて地味ながら偉大な統計学の世界を垣間見ることができる。

日陰者としての統計学

 「世の中には3つの嘘がある。嘘、真っ赤な嘘、そして統計だ」と言ったのは、ベンジャミン・ディズレーリ元英首相だ。このことは弱い論証を支えるために統計が使用されることを表した表現である。科学は数字だ。なぜなら数字は客観的証拠のうち最強の説得力を持つからである。だが一方で数字は、世論を操作する政治家や、うかつなアナリスト、未熟なエコノミスト、押し付けがましい広告屋によっても悪用されてきた。都合のいい数字を選ぶ、単純化しすぎる、わざと曖昧にする、といったように。

 また統計学は地味だ。私も物理学を学んでいながら、体系的に統計学を学ぶカリキュラムはなかった。標準偏差や線形回帰を実験の授業でやる程度であった。しかも90分程度で。また、この本で取り上げる人々は統計を用いて特別な成果を挙げた人々だが、公に賞賛されることはない。むしろ、批判されているものもいるぐらいだ。

 以上のような理由から、統計学はずっと日陰者であった。そんな彼らに日の光を当てたのが本書だ。

統計的思考とは

 「統計的思考は難しい」これはノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーマンの言葉である。ノーベル章を受賞したような頭のいいひとにとっても難しい「統計的思考」とはどのようなものだろうか。どこが普通の思考と違うのか。本書では次の5つの特徴を挙げている。

  1. 統計上の「平均」よりも「ばらつき」に着目する
  2. 真実よりも実用性を優先させる
  3. 似たもの同士を比べる
  4. 2種類の間違いの相互作用に注意する
  5. 稀すぎる事象を信じない

 どれも普通っぽい気がする。だが、上で挙げた10のエピソードを突き詰めていくと、これら5つの特徴をよく表していることがわかる。そしてそのどれもが、普通ではなく、「統計的思考」の産物であるとわかるだろう。

物理学と比較して

 私の専攻は物理学なので、どうしても物理との違いが気になってしまう。本書では、統計学と物理学のスタンスの違いを端的に表した言葉として、次のセリフを引用している。

すべてのモデル*1には間違いがあるが、役に立つモデルもある。

 これはどういうことだろうか。単刀直入にいうと、最良の統計モデルでも現実の世界を完璧に表現することはできない、という意味だ。だから彼らは間違ったモデルだろうと、有用ならば使う、というスタンスをとっている。彼らは完璧なモデルを構築することに興味はない。興味があるのは、現在のモデルよりも優れたモデルを作り出すことだ。だから相関関係でよい。そこがを因果関係を求める物理学者と違うところだと、著者は述べている。

 私はそこが統計学の良いところだと思う。まず、本書でも扱われているようなマーケティングで統計を扱う場合、因果関係は必要ないからだ。A/Bテストで一方がより多く選ばれた理由を知ったからといって、売上が変わるわけではない。また、人の振る舞いほど変化に富むものが、単純な原因で決まるとは信じがたい。それをいちいち調べるのはコストパフォーマンスが悪すぎる。

 また、因果関係が知りたければ、経験や他の分野の知識に頼ればいい。本書で扱われている疫学者は、微生物学者や農業部門の調査官、患者など、統計以外のさまざまなところに裏付けとなる証拠を求めている。統計で無数に考えられる仮説を絞り込んで、あとは実地的な知識から因果関係を見出す。そのように使えるため、統計はまことに使い勝手がいい。

まとめ

 統計は使い勝手がいい。そのうえ、数字に強くなれる。世間ではビッグデータとか機械学習など、ビジネスやテクノロジーの道具として使われることに注目されているけれども、日常生活でも十分使える*2。だから、知っていて損はない。大学では学問をやるところだけど、学校は勉強をするところだから、高校ではこういった役に立つことを教えればいいのに。

ヤバい経済学 [増補改訂版]

ヤバい経済学 [増補改訂版]

運は数学にまかせなさい――確率・統計に学ぶ処世術 ((ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ))

運は数学にまかせなさい――確率・統計に学ぶ処世術 ((ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ))

*1:複数の仮説を組み合わせたシステム、言い換えれば仮説の集合体を「モデル」という。飛行機や軍艦のプラモデルはそれらの主要な特徴をとらえた、プラスチックの模型である。

*2:テレビを見ていて、サンプリングが少なすぎだと気付いたり、比較対象がおかしいと思ったり。

暁美ほむらは我欲なんかに走ってない。

 
 全国のほむほむファンの諸君、まどマギダイエットは捗っているだろうか。
さすが虚淵先生と言うべきか、結末がハッピーエンドに限りなく近いバッドエンドでもやもやが残る。
つらい。日常生活に支障がでるほどに。だから救いを求めていくつかの記事を読んでみた。


 救いなんてなかった。そんな…あんまりだよ、こんなのってないよ。


 だが繰り返し鑑賞する間に新しい解釈を思いついたので、晒して見ようと思う。ほむほむファンの人は救われるはず。ネタバレを含むので、まだ見ていない人は映画館へダッシュすべし。


君の銀の庭(期間生産限定アニメ盤)

君の銀の庭(期間生産限定アニメ盤)


 結論から言うと、ほむらは我欲に走ったわけではない*1。そこを勘違いしている人が多いんじゃないか、という印象がある。「愛よ。」のインパクトが強すぎるし、「悪魔」のような風貌や主題歌の「君の銀の庭」からそう考えがちだけど、そうじゃない、と私は考える。


 なぜなら円環の理に導かれなかった理由の説明がつかないからだ。


 ほむらの魔女化が発覚したあと、魔女となったほむらを救うためにみんなが戦うシーンの最後を考えてほしい。まどかが結界を壊し、キュウべぇたちが現れたところでさやかが「あれを壊せばあんたは自由になれるんだほむら。インキュベーターの干渉を受けない世界で、あんたは本当のまどかに会える」と叫んでいる。それに、まどかがほむらを迎えに来た時も、これからはずっと一緒だよ、と言っている。つまり、あのまま円環の理に導かれれば、まどかとずっと一緒に居られたのだ。「悪魔」にならなくとも。


 ではなぜ叛逆したのか。


 それは花畑のシーンに表れている。ほむらはまどかに悪い夢を見たと伝える。夢の中で、まどかがひとりだけ遠いところに行ってしまって、大好きな人達と会えず、誰からも忘れられてしまったことを。前作では後味がよかったため忘れがちだが、あの世界ではまどかが犠牲になったからこそ、希望と絶望をめぐる残酷な連鎖が断ち切られたのだった。少なくともほむらはそう考えている。

 それに対しまどかは、そんな辛いことは私にはできない、と言う*2。そこでほむらは、まどかにとってもそれは辛いことだと気付いてしまった。それゆえほむらは叛逆を決意する。それを示唆してか、明るいBGMとは裏腹に、きれいな花が散っていった。正しさよりも明るい場所を求めて、「君の銀の庭」を否定する覚悟を決めたのだ*3


 つまり、まどかに辛い思いをしてほしくなかったから、叛逆した。


 だから、ずっと一緒にいられるだけでは物足りず、ひとり占めしたかった、という意見は的が外れている。ほむ改変後の世界*4では、まどかには大切な家族も友人もいる。この後、どうやってひとり占めするのか。まどかが手に入らなかったのはまどかの幸せを願った結果なのだ。まどかをひとり占めしようとした結果ではない。あなたが一緒なら私はどんな姿になったって平気だわ、というセリフはまどかへの献身を表したセリフだ。自分の欲よりもまどかの幸せを願っている。

 「この感情は私だけのもの」

 というセリフを聞いてゾクッとした人も多いだろう。かくいう私もそのひとりだ。だがこれもミスリードだ。「親切とは喜びにほかならない」といったのはアランだったか。愛する人を救うことに喜びを感じるのは異常だろうか。愛する人を支えてあげること、そして自分が生きていくことの支えにすること。これを彼女は「愛」と呼んだ*5

 どうも私には意図的にミスリードしているようにしか見えない。みんながアニメ版のさやか視点*6に陥っているように思える。アニメ版ではまどかは概念となり、魔法少女のために犠牲となった。劇場版ではほむらが悪役となり、まどかのために犠牲になった。そんなほむらがいつ我欲に走ったというのか。


幸福論 (岩波文庫)

幸福論 (岩波文庫)


なお、愛が重すぎるので、クレイジーサイコレズであることは否定しない。

*1:我欲の是非はここでは論じない。それをここで語るには狭すぎる

*2:アニメ版でまどかが「これからの私はね、いつでもどこにでもいるの。だから見えなくても聞こえなくても、私はほむらちゃんの傍にいるよ」と言っているように、実際にはひとりぼっちではない。さやかやなぎさを連れてきたように、円環された魔法少女たちとは会える模様。ただ、夢の中のまどかはそれを知らない。

*3:君の銀の庭の2番を参照

*4:ほむらが悪魔化したあとの世界

*5:もちろんこれだけでは彼女は満足できない。その証拠に、エンディングではあの花畑でまどかをずっと待っていた。来たのはキュウべぇだったため、ボロ雑巾にされていたが。

*6:ほむらの本当の思惑が見えていない状態